監督のキム・ギドクに関しては「韓国の北野武!」というコピーがあちらこちらで踊っておりますが、確かにその通りです。不器用な男にロマンチシズムを体現させるという作品のトーンや、物語の牽引力が常に脇役にあり、主役はそれに対してまず傍観をしてから絡んだり絡まなかったり、という作りも含め。だがしかし、キム・ギドクにあって武に無いモノがあります。それは「生への渇望」です。
北野武という監督は、自身の作品を通して「死への渇望」を追求してきた作家と言えるでしょう。実際に実行してしまった、という事実を踏まえれば、類稀な実践派の作家と言えるかも知れません。「その男、凶暴につき」を除き、二作目以降全ての作品の脚本を書いているのは武自身なので、武映画における登場人物の「死へのレール」は武が引いていることとなります。運命的に必然的に偶発的に、様々な理由で武はキャラクターを死へと導きます。
ところがキム・ギドクはそれを許しません。「悪い男」において、ヒロインが凄まじく酷い目に遭い絶望しようが、主人公が死刑宣告を受けるかもしれない、という局面に陥ろうが、腹心に裏切られナイフで刺されようが、死という安易な結果には至りません。「あんまり死ぬのを怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」とは「ソナチネ」の台詞です。「HANA-BI」に関しては「死というものに対しての一つの形を提示したかった」という旨の発言(うろ覚えです…)がありました。キム・ギドクが「悪い男」で提示したかったのは、映画的に美しく象徴的に切り取られた「死」に対して、「カッコ良い死に方なんてカッコ良い訳がない」と、武に名指しで向けたある種のアンチテーゼなのかも知れません。
しかし、そんな武の作品でも「菊次郎の夏」や「座頭市」では、生へ渇望とまでは行かなくとも、ポジティブな何がしかが感じられる作品がありましたが、それにしても「コメディ」や「時代劇」といった縛りが存在します。そこには、もはや世界が注目する作家となってしまった北野武が、無意識の内に自分で作り出してしまった客観視という「枠」ないし「ジレンマ」を感じます(言い換えれば、もしかしたらそれは武自身がどうしても譲ることが出来ない「照れ」のようなのモノなのかも知れません)。
「本当に汚い物に目を向けなければ、本当にロマンティックな詩は書けません」とはスガシカオの弁です。「悪い男」からは、「真のロマンチシズムとは何ぞや?」と余分な部分を削るだけ削っていったら、形は相当イビツだけど「究極のロマンティック」が出来上がってしまった、という、それこそ本当に汚い物と本当に綺麗な物が奇跡的に共存しているかのような印象を受けます。ここ数年、武の作品からはキム・ギドクのような「他人にどう思われようが、とりあえず吐き出してしまいたい」といったアグレッシヴさは残念ながら見受ける事が出来ません。しかし、もし武が「悪い男」を観たなら、確実に彼の中に眠る「何か」を揺さぶったはずです。
「悪い男」は、キム・ギドクという作家の作品をもっと観てみたい、と思わせる映画であることは間違いなく、同時に、自分で設定してしまった縛りに対して「FREE YOUR MIND…」出来るのか?という北野武次の一手に注目したくなる映画でもありました。