ヴィンセント・ギャロについて

昨晩BSで「バッファロー'66」を再見して、いくつか思うことがあったので
(画像はオールドスクール期のギャロ)。


観ながらずっと
「『バッファロー'66』のオモシロさに比べ、どうして『ブラウンバニー』はあんなことになっちゃったんだろう?」
ということを考えていました。


で、その「バッファロー'66」の「ワン&オンリー」の魅力は何か?と観ながら考えたんですが、それは「フィックス(固定)の画の面白さではないか?」いうことに気付きました。
例えばギャロとクリスティーナ・リッチが会話をするシーンでは、必ず写る対象が「今話している人」、そして「聞き手の目線」がカメラの位置になっていて、よくありがちな「聞き手の肩越しに喋っている人が写っている」というカットが無い。
印象的な4人でテーブルを囲んでの妙な切り返しの会話シーンでも、必ず4人の内で「喋っていない人」が設定され、その人の目線にカメラが据えられる。


この辺は本人も影響を受けたと公言している小津安二郎マナーに従ってのことでしょう。


会話シーン以外でも、フィックスではひたすら人工的な構図の画が繰り返されます。(これはもしかしたら、撮影のランス・アコードの個性なのかも知れません)。


もう一つは、ビリー・ブラウンという主人公のキャラクター。


刑務所から出所して自宅に向かい、ポーチで「気分が悪い…」と言ってポーチに座り込んで泣き出す、というシーンがあります。そこでビリーは「俺を抱いてくれないか?」と言い、クリスティーナ・リッチ演じるレイラが肩を抱こうとすると「触るな!」とか言い出します。もう意味がわかりません。
こうした「一見普通に見えるんだけど言動が微妙におかしい」という男の「次は何を言い出すんだろう?」という吸引力によって「何故素性のわからん男の言い成りになって行動を共にするか?」というレイラのモチベーションの不明さがあっても、最後までグイグイと引っ張られてしまうのです。


あとは劇中でかかる音楽。


一体誰が「キング・クリムゾンの『ムーンチャイルド』*1クリスティーナ・リッチにタップを踊らせる」という事を思いつくでしょうか?
エスの「ハート・オブ・ザ・サンライズ」*2での、画とシンクロした曲の転調しかり。


では、その点「ブラウンバニー」はどうだったか?


まず各作品のクレジットを見れば一目瞭然なんですが
バッファロー*3 ブラウンバニー*4 単純に関わっているスタッフの数が違います。
つまりバッファローとは違う地平を「ひとりぼっち」で目指した結果、ああいった「バイクで風になるオレ、シャワーを浴びるオレ、娼婦を優しく拒絶するオレ。俺俺俺、あ、もしもし?オレオレ、オレだけどさぁ〜」という「私映画」になったと(普通は順番が逆だと思うんだけど・・・)。
だからこそカンヌでの大ブーイングは、それこそ「もう監督しない!」言わしめるほど、パーソナルな映画を否定された事がショックだったんでしょう。
音楽で言えば今回はジョン・フルシャンテに映画用の曲を書き下ろして貰いながら劇中には使用しない、という訳のわからない事をしでかしている。友達じゃなきゃブッ飛ばされますよね普通。


だがしかし、監督として常にチャレンジをしていこう、という精神は非常に良いことだと思われるので、ギャロの次の監督作に期待したいです。


以下はブラウンバニーにコメントを寄せている人たちの言葉から


「こんなにも女々しく個人的な映画は僕は大嫌いだ!!!でもさ・・・」 竹中直人(俳優/映画監督)

その通り。


で、最近何かと目に付くこの人


「『バッファロー’66』よりずっといいよ!」 阿部和重(小説家)

いや、私は「バッファロー'66」の方が好きです。