硫黄島の英雄達=Z-BOYS 〜父親たちの星条旗〜


父親たちの星条旗」を観ました(@チネチッタ)。
硫黄島陥落記念(実際はこの後もまだ戦いは続く)として撮影された一枚の写真。たった一枚の写真がアメリカ国民の戦意を高揚させ、戦争国債購買を促すキャンペーンに使用されたらどうなるか?そしてその写真に写っていたというだけで、一兵士が国の英雄として熱狂的に迎えられたらどうなるか?そしてその写真が、実は“やらせ”のような代物だったら?
まずは侍功夫さんのコチラをまずご覧になって頂きたい。確かに氏が仰るとおりの「凍てつく傑作」なのですが、自分はこの作品とソックリな構図の作品を思い浮かべました。それは「ロード・オブ・ドッグタウン」です。

スケートボード発祥の地、LAのドッグタウンで、ブームによってスターとして祭り上げられた3人の少年達が、離れ離れになっていってしまう切ない物語。ブームに便乗してスターダムに登りつめようとする野心家トニー・アルヴァ。クールにシーンを見つめる堅実派ステイシー・ぺラルタ。そして、人や組織に従事するのが不得意で、自らシーンを退いてしまうアウトロー:ジェイ・アダムス
「父親たちの星条旗」でも、「野心家、堅実派、アウトロー」という構図がピタリと当てはまり、3人の兵士の悲喜こもごもが描かれていきます。硫黄島からの帰還後、国債購買キャンペーンツアーに借り出され、ただただ彼らが疲弊していく様が淡々と綴れ、頭上には常に巨大な虚無が渦巻いています。
以下は粉川哲夫の氏「シネマノート」より抜粋。

クリント・イーストウッドが硫黄島の戦闘の映画を撮ると知ったとき、ふと、戦時体制にのめりこみつつあるブッシュ政権好みの映画が出来るのではないかという懸念が浮かんだ。考えてみれば、それは愚かな懸念である。ハリウッドは、すでに、大分まえからブッシュ政権に一線を画すようになっている。そして、もしハリウッドがどういう傾向のなかにあったとしても、そのなかでイーストウッドが時流に乗る映画を作るはずもない。実際に、この映画は、そうした懸念を吹き飛ばす傑作であった。
◆ある意味で、このことは、ブッシュの政策が、伝統的な「右派」にも愛想をつかされるほどひどい状態に陥っているということでもある。イーストウッドの政治信条は、伝統的な「右派」のものであり、民主党とは異なる。地域や伝統を重視し、全国的な統制には反対する。国を愛するのは、地域を愛するがゆえであり、彼らにとって、国家は、地域を一つに(均質に)統合するためのものではなくて、あくまでも地域と地域を連合させ、ネットワークするものとしてあるべきなのだった。が、アメリカの歴史のなかでは、この地域主義とポピュリズムが国家の利害と一致した形で戦争を遂行するという形をとってきた。しかし、そういう古典的図式がもはやなりたたないのが「テロ撲滅」をうたうブッシュ・ドクトリンなのである。(…続く)
レビュー全文→ http://cinema.translocal.jp/2006-10.html#2006-10-05




最も悲しい作戦が成功。 〜トンマッコルへようこそ〜


トンマッコルへようこそ」を観ました(@チネチッタ)。
こちらもまずはマトモ亭によるコチラをご参照頂きたい。
自分が一番強く感じたのは「なんだ、仲良くできるじゃんか!」ということ。「JSA」と同じで、「仲良くなってはいけない人たちが、心を通わせあってしまったら…」というテーマを描いた作品です。肌の色も、話す言語も、生活習慣はもちろん、食べるものだって同じ。共通点を見付ける毎に、“争う理由”が不明瞭になっていきます。
トンマッコルという桃源郷に住む“国”という意識が無い人々に、身包みをはがされ、面子もイデオロギーもクソも無くなり、「対:人間」として接した時に初めて理解できる、お肉の美味しさだったり、遊びの楽しさだったり、労働の尊さだったり。
映画のラストで描かれるような、北と南の悲し過ぎる団結ではない団結を、やっぱり切に願っているからこそ、韓国映画界はこうした作品で訴え続けているのではないかナァ、と思いました。
しかし韓国映画って、何故こういう出演者が一堂に会すような記念撮影風の写真が(そのままポスターになっちゃったり)沢山撮られているんですかね?
 
追記:「頭の弱い子」がカン・へジョンではなくペ・ドゥナだったら100点でした。