2018年公開作品ベスト10

f:id:Dirk_Diggler:20190101000718j:plain

1. 『寝ても覚めても』

2. 『ファントム・スレッド』

3. 『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』

4. 『1987、ある闘いの真実』

5. 『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』


1.寝ても覚めても
 鑑賞後に原作小説も読んだが、原作にあった枝葉はバッサリと切り落とすが映画用には新たな枝葉が生えており、骨格は同じながらも全く別の話のように感じた。同様のアプローチでテッド・チャンの短編を映画化したドゥニ・ヴィルヌーヴの「メッセージ」を思い出したが、どちらも映画の方が好みである。


2.ファントム・スレッド
 往年のメロドラマのようであり、そうしたスタイルでは全く描かれなかった男と女の支配/被支配の関係を描いている。


3.ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ
 前作ではサブエピソードとしてしか描かれなかった、マット(ジョシュ・ブローリン)とアレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)の蜜月が記されており、そしてそれは不幸な形で終焉を迎え、三作目への期待が最高潮に達したところで物語も終わる。


4.1987、ある闘いの真実
 どう考えても今の日本人に刺さるのは「ペンタゴン・ペーパーズ」より断然こちらであり「記録は取るなと言ったろ!」という台詞にも象徴されるように、創作物によって本邦の現状の異常さを再認識するのがとても辛い。


5.フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
 母親ヘイリー(ブリア・ヴィネイト)と子供ムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)に纏わる様々なエピソードは、全編それだけでも観ていられるぐらいの楽しい感じではあるのだが、この暮らしを諸手を上げて肯定するのはそれはそれで問題がある。すると終盤にちゃんと反転があり、この辺にニューシネマの影響を感じたりした。東にサフディ兄弟がいれば西にはショーン・ベイカーあり。

 

f:id:Dirk_Diggler:20190101001244j:plain

6. 『スモールフット』

7. 『イコライザー2』

8. 『BPM ビート・パー・ミニット』

9. 『ブラックパンサー』

10. 『ロープ/戦場の生命線』

 

6.スモールフット
 果たして「移民どもは強盗や殺人を犯すので壁が必要だ」と吠えたり、自分に都合の悪いニュースを「フェイクだ」と逃げる首長が登場しなかったら、こんな作品が作られただろうか?と思えるほどに色々とリンクする部分が多い。この映画の幕引きを「ファンタジーである」と一蹴するのは簡単である。


7.イコライザー
 前作との一番の大きな違いは「もうオバマの時代ではない」、なりふり構わない時代が到来したということ。今作の敵が発する「前とやってたことは同じだろ?」という〝事なかれ主義〟に対する激しい怒りが渦巻いている。早朝の郊外住宅地でマッコールが啖呵を切る場面の異様さが、この手のジャンル映画と本作の決定的な違いである。


8.BPM ビート・パー・ミニット
 フランスという国における、ディベートの歴史とプロテストの歴史の重みを痛感する作品であり、もちろんそれらは全て「公平であれ」という道に通じており、それをまやかしで回避するような奴等には(非暴力での)実力行使も辞さない、そんな当たり前のことを訴えている。個人の物語の延長にある社会運動の話。


9.ブラックパンサー
 物語はああした形で幕を閉じたが、ウンジャダカ/キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)がワカンダに投げかけた疑問は、マイク・レズニックが「キリンヤガ」で提示したような問題を孕んでおり(⇨参照)、あそこでテラフォーミングされた故郷に移住した人々が陥ったような対立を招くような気もする。続編があれば是非観てみたい。


10.ロープ/戦場の生命線
 戦争の不条理を、間接的にちょっとした事件を主題にして際立たせる、という点で成功している。ベスト10本に入るか入らないか、という小品だとは思うが、あまり知られぬまま埋もれていくには勿体ない、そんな映画。

 以下に次点作品を。
君だけが、僕の世界/マダムのおかしな晩餐会/シュガーラッシュ:オンライン/パッドマン/ロンドンに奇跡を起こした男/輝ける人生テルマ/走れ!T高バスケット部/REVENGE リベンジ負け犬の美学/search/運命は踊る犯罪都市名もなき野良犬の輪舞/バッド・ジーニアス/タリーと私の秘密の時間ウィンド・リバーミッション:インポッシブル フォールアウト/天命の城レディ・バードビューティフル・デイパティ・ケイク$アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー/5パーセントの奇跡/ペンタゴン・ペーパーズ/女は二度決断する/ヴァレリアン/ダウンサイズスリー・ビルボードあなたの旅立ち、綴ります/THE PROMISE 君への誓い/デトロイトローズの秘密の頁/RAW 少女のめざめ/オール・アイズ・オン・ミー

ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』

f:id:Dirk_Diggler:20181230195550j:plain

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

 

  若くはない。43歳はもう若者ではないのだ。

 「最初の悪い男」の主人公:シェリルは43歳。女性に降りかかる性暴力に抗うための護身術の講習会などを行うNPO法人で働いているが、彼女が考案した「護身術とエクササイズの融合した」映像ソフトの売上により、勤め先では歳相応の成功を収めていると言って良い。では私生活はどうか? 勤め先の団体で理事を務めるフィリップという男性に好意を抱いている。フィリップは65歳で、約二回りは歳が離れている。物語はシェリルの恋の行方を追う物なのかとページを進めれば、クリーという若者の闖入により、事態はあらぬ方向に突き進んでいく。
 職場の上司夫妻の娘で20歳。自らのはち切れんばかりの若さを自覚していない若者であるクリーと、各所体毛に白髪が交じり始めている自覚のある中年のシェリルとが、ふとしたきっかけで同居生活を送ることになる。

 完璧に組織化された生活を送り、ヒステリー球という喉の狭窄感、異物感に悩まされているシェリルは、まるで「傍若無人」という四字熟語が大きく書かれたTシャツを着てリビングを行ったり来たりするようなクリーという人物との暮らしを通じて、シェリルの中に様々な変化が訪れる。それはぎこちない会話に端を発し、それが暴力的な取っ組み合いに取って代わり、果ては思いもよらない親密さを交わすまでに発展する。
 「最初の悪い男」では幾つかの〝可能性〟が提示される。

 自分と自分が好意を寄せている男性は、実は遠い昔に結ばれていた王女と王であり、何度目かの転生を経て今の人生でやっと巡り会ったのだという可能性。その男性が孫ほど年の離れた少女と肉体的な関係を結ぼうとしている可能性。ヘテロセクシャルという自認があったはずが同性をセクシャルな目で見てしまっている可能性。それらの可能性はジリジリと彼女を追い詰めていく。

 しかしながら、その〝可能性〟の有無を確認する術は当たって砕けるしかないのだ、というシェリルの選択と行動、がむしゃらな有言実行精神は、通常の私小説の枠組みを大きく超え、読者に勇気を与えてくれる。
 若くして、その若さゆえの特権である「奔放さ」を開放してこなかったり、その機会に恵まれなかったり、それを飼い慣らす術を知らなかった「かつての若者」(しかもそこには老いの実感も希薄なのだ!)は、いよいよ肉体的な衰えが本当に始まろうとしている人生の折り返し地点に立たされた時、いかにしてその衝動と向き合えば良いのだろうか。シェリルとほぼ同年齢であるミランダ・ジュライは、自らが書き上げた初の長編小説の主人公を、圧倒的に肯定してみせる。
 「雨のような拍手喝采
 ジュライは作品中に二度、この言葉を用いている。一度目はメタ的な使い方で、そして二度目は文字通りの祝福として。物語を読み終えた貴方も、きっとその観衆に加わっているはずだ。

ミランダ・ジュライ「いちばんここに似合う人」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

手負いのネコと喋るクマ 〜「ザ・フューチャー」と「テッド」の35歳問題〜 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

ウェルズ・タワー「奪い尽くされ、焼き尽くされ」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

 

HOMMヨ - No Past To Love

f:id:Dirk_Diggler:20181207002146j:plain

 HOMMヨというバンドの存在を知ったのは約2年前のことだったと思う。ツイッターでVo/Gtのニイマリコという人物を知り、そこからバンドにたどり着き、動画を幾つか見て、初めてライヴに足を運んだのが彼女たちが主宰していた「ママズ・タトゥー」というイベントだった(以降、彼女たちのライヴには何度か足を運ぶことになる)。

 HOMMヨのサウンドを、知らない人に「どんな感じのバンド?」と聞かれたとしたら「日本のスリーター・キニーみたいなバンド」などと形容していたのだが、実はアルバム毎にそうした「US/UKインディーロック」的な音像からはどんどん離れていっており、今回、新らしく発売されたアルバムを聴いて、その「形容しがたい」サウンドは更なる進化/深化を遂げているように感じた。

 YouTubeなどに「何でもある」時代になり、過去の邦楽のミュージシャンの動画を見ていると、例えば「この〝力石のテーマ〟を歌うヒデ夕樹という人の感極まり方はまるでジム・モリスンのようだ(参照)」とか「全盛期の安全地帯はミネアポリスファンクのようだ(参照)」とか「アップテンポなブラスロックのようにも聴こえるが決定的に何かが違う杉良太郎参照)」などなど、洋楽の影響はうっすら感じ取ることが出来るのだが結果としてアウトプットされた音が明らかに異彩を放ってしまっているケースは結構あるような気がしていて、それはまた「邦楽っぽさ」とも「昭和歌謡っぽさ」などとも異なるように思われる。もしかしたらこれらが、情報として伝わるのは音源ぐらいしか無かった時代に、その取り込んだ影響がミュージシャン自身の自我と結びついて増幅していった結果、独自な音として表出した「ネット以前の感覚」なのかもしれない。

 HOMMヨのサウンドに関していえば、前々作である「NO IMAGE」ぐらいまでは割と濃厚であったUSオルタナグランジチルドレン的な音像が、それ以降の「cold finger」~EP「LOADED」と、よりヴォーカルであるニイの歌を活かした路線へとシフトしていき、そして今回の「No Past to Love」では、ロック・パンク・ニュー/ノーウェイヴなどなど、様々な表情を見せつつも、ますます形容しがたいというか、そのどれにも当てはまらないような5曲が収録されることになった。

 至らないながらも、その詳細を記してみようと思う。

No Past To Love [SIGMA-001]

No Past To Love [SIGMA-001]

 

1.デラシネ

 「運べや運べ 俺は獣を親に持ち 汚れた雨も 飲み干せる」という歌いだしから圧倒的な世界が広がるが、ニイの言葉の乗せ方の巧みさにも圧倒される(これほどまでに日本語詩を大切にしているロックバンドを、私は知らない)。

2.#0

 軽快なカッティングで始まる朗らかなナンバーだが、「降臨(callin?)救世主」など、ニイの言葉遊びがここでも冴える(この人は本格的にポエトリー/ラップなどをやった方が良いと思う)。

3.fang

 「#0」と同様にカッティングのリフが印象的な曲だが、Ba:みちゃん、Dr:キクイマホの強靭なリズム隊による熱が、クラウト/ノーウェイヴ的に繰り返すシンプルなギターリフの無機質さを際立たせる。「誰もがNOとは言わずにすむ世界」という一説は今年一番心に響いた日本語詩かもしれない。

4.koo koo

 5曲の中では一番スローなナンバーだが、曲調も含め、ニイが敬愛するという故クリス・コーネルに捧げた曲なのではないかと妄想してみる。

5.ノクターン


HOMMヨ / ノクターン 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 MVがあるので参照していただくのが手っ取り早いと思うが、ポップな曲調が1:30あたりからブラストビート風に転調するので唖然とするが、その移行が自然過ぎることにも驚かされる。そんなトリッキーな構造を持つ曲だが、おそらく一番印象に残るのもこの曲であろうから、MVを制作したい理由も頷ける。

 

 「No Past To Love」は、バンドが新たに立ち上げた自主レーベルから発売となっているが、なぜこれほどのバンドがインディから音源を出さなければならないのか?という疑問がまずあり、そしてできることならこの倍ぐらいの曲数の音源を聴きたかった、というのが正直な感想である。多くの音楽好きの人たちに、HOMMヨの新譜が届くように願うばかりである。

LOADED

LOADED

 
cold finger

cold finger

 
NO IMAGE

NO IMAGE

 
ARMY YOU

ARMY YOU

 
witchman

witchman

 

シーツを被ったパトリック・スウェイジ 『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』

f:id:Dirk_Diggler:20181121031518j:plain

 「新しいアイデアというのは、新しい場所に置かれた古いアイデア」なんだそうである(出展

 『A GHOST STORY』を観て、「死者にはかつての愛する人が見えるが、生者には見ることはできず、そしてお互いに触れることができない」「物には触れることができ、動かすことも壊すこともできる」という作品上のルールが明らかになっていく過程で、「はて、どこかで観たような・・・」と結構な既視感を抱いていたのだが、それは1990年の大ヒット作にあることに気が付いた。

 考えてみれば「ゴースト」だって、それこそ何百回何千回と語られてきた恋人たちの幽霊譚の焼き直しだったはずである。では90年という時代に、どんな新しい場所/器に、古いアイデアが置かれた/盛られたか?と考えてみると、大きく分けてそれは二つあるように思う。一つは「ライチャス・ブラザーズ」であり、もう一つは「ろくろ」であろう(今回は「ゴースト/ニューヨークの幻」の考察ではないので詳細は割愛する)。

 さて、話は戻って『A GHOST STORY』は一体どんな新しい器に古いアイデアを盛り付けたのか?という点だが、これも象徴的なポイントが二つあるように思う。一つは「A24」、もう一つは「ステージド・フォト的な画面構成」である。

f:id:Dirk_Diggler:20181121025552j:plain

■A24(公式サイト

 A24とは独立系の話題作ばかり手掛ける、現在飛ぶ鳥を落とす勢いの制作会社である。インスタグラムのフォロワーは25万以上。ムーンライト、20センチュリー・ウーマンフロリダ・プロジェクト 真夏の魔法パーティで女の子に話しかけるにはアンダー・ザ・シルバーレイク・・・といった具合に、若者からの支持があり、かつメジャースタジオが尻込みしそうな挑戦的なテーマを扱ったラインナップがならぶ。

 今回の「A GHOST STORY」において、メインヴィジュアルとなる「シーツに黒い目が2つあいたオバケ」という、ある種の子供っぽさはあるが、その反面、攻めの姿勢が感じられるデザインを採用したことも、結果として「A24なら何かやってくれるのでは」といった若者支持層の期待と結びついたのではないかと推測する。

f:id:Dirk_Diggler:20181121025506j:plain

■ステージド・フォト

 ステージド・フォトとは「登場人物や背景など、被写体に一定の加工を行ない、画面の中にフィクショナルな世界を構築する写真の技法」のことである(出展)。その写真自体が映画の一場面などを想定して象徴的に切り取っている、という風に考えれば、これを映画に用いることはある意味で逆輸入的な技法となるわけだが、デヴィッド・ロバート・ミッチェルの「イット・フォローズ」あたりから、こうした作風を標榜する作品は年々増えつつある。

 「A GHOST STORY」においては、スタンダードサイズの画角に上記のような手法でアメリカの郊外を「ステージド・フォト」的に収めるという作風が、現代美術におけるビデオインスタレーションのそれにも似ていて、それが作品のアートフィルム的な側面を強調している。アメリカの郊外住宅地を、開拓時代からはるか未来までもを、土地や建築といった観点で切り取るといった手法も、アートフィルム的であり、そして前段に示したように「まさに今のA24!」といった、実験的かつ挑戦的な映画となっていることも確かである。

f:id:Dirk_Diggler:20181121025438j:plain

 「A GHOST STORY」を斬新に感じるか、「ゴースト」の焼き直しと感じるかは、鑑賞者の映画趣向や映画遍歴に左右されそうだが、A24の歴史にまたもや奇妙な1ページが加わったことは間違いなく、今後も同スタジオから目が離せそうにない。

 

セックス・トリクルダウン『フィフティ・シェイズ』三部作

f:id:Dirk_Diggler:20181011234408j:plain

 グレイ・エンタープライズCEO:クリスチャン・グレイ(ジェイミー・ドーナン)は、出身大学の学生新聞の取材を受ける。取材当日に社に現れた英文科の学生:アナスタシア・スティール(ダコタ・ジョンソン)は、会話を進め親交を深める内にクリスチャンにある〝素質〟を見抜かれ、ある〝契約〟を結ばないか?と持ちかけられる。それはアナが「従属者(サブミッシブ)」、クリスチャンが「支配者(ドミナント)」となって性交渉をし、その一部始終は決して口外しないという内容。当初は断る気でいたアナだったが、次第にクリスチャンに惹かれていき……

 「フィフティ・シェイズ」シリーズは、上記のように幕を開ける「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」、一作目の終わりの別離から関係修復~プロポーズまでを描く「フィフティ・シェイズ・ダーカー」、そして結婚~ハネムーンに始まり、外部の人間により二人に危険が迫る…というのが現在公開中の「フィフティ・シェイズ・フリード」の三部作である。

 全世界で1億部以上と言われるベストセラーを映画化したトリロジーは、〝マミーポルノ〟などと揶揄されるも、映画版にはこれまで百万回は繰り返されてきたであろう手垢にまみれたロマンスにBDSM(Bondage,Discipline,Sadism & Masochism)という要素を巧妙に配置し、それを求心力に観客の好奇心を煽るというアプローチを取っており、「そりゃ売れるわ」と単純に感心してしまった。

 しかしながら映画三部作は、一作目「~グレイ」でこそ先記のような「ロマンスとSMのマッシュアップ」というコンセプトを成立させていたものの、二作目「~ダーカー」、三作目「~フリード」とシリーズを重ねるごとにBDSMという要素は徐々に前菜か付け合わせ程度の扱いになっていき、どちらかというと手垢にまみれたロマンスの方が主体となっていく。それは何故なのか。

 一作目「~グレイ」のメガホンを取ったのはサム・テイラー・ジョンソンという女性監督である(監督作に若き日のジョン・レノンを描いた「ノーウェア・ボーイ」などがある)。STジョンソンが「~グレイ」で試みたのは、BDSMに基づいたセックスをある種の〝異世界/新世界〟として切り取るというアプローチであったように思う。プレイルームと呼ばれる赤を基調とした荘厳な部屋で、アナとクリスチャンは性行為に耽るのだが、この映画の肝となる重要な幾つかのセックスシーンを、シーマス・マクガーヴェイのカメラが豊かに美しく掬い上げている。そんな中でも印象に残ったのが、「挿入前にコンドームの袋を口で引きちぎるクリスチャン」というショットであり、これをわざわざインサートしたSTジョンソンには、ありふれた性行為の描写〝以上〟のメッセージがあったに違いない。

f:id:Dirk_Diggler:20181011233743j:plain

 ところが、二作目以降は監督が変更となり、ジェームズ・フォーリーという男性監督が引き継ぐことになる(「摩天楼を夢みて」「NYPD15分署」などで知られる)。二作目以降に明らかなのは、セックスシーンの凡庸さである。日常の延長としてダラダラと始まり、多くの映画で見られたような平凡なカット割りで綴られる、可もなく不可もない性描写。クリスチャンの施すプレイに反応するアナの様々な表情・身体を収めていた「グレイ」とは対照的に、「ダーカー」「フリード」ではクリスチャンの筋骨隆々とした背中や激しく突き動かされる腰などの方が強調される。アナが仕事中にクリスチャンとのセックスのことを思い出してしまう、という編集が「フリード」に見受けられるが、これも個人的には〝如何にもな男性目線のセックスファンタジー〟という感じで何だか鼻白んでしまった。

 サディズム、マゾキズムに役割を割り振った上での性行為は、基本的には暇と財力を持て余した一部の金持ちが、更なる快楽を求めて邁進してきたジャンルのはずである。「フィフティ・シェイズ」三部作にたびたび登場する「プレイルーム」には、その装具や寝具やその他の道具には、ズッシリとした歴史の重みが感じられる(現代上流社会の乱行という側面を描いた「アイズ・ワイド・シャット」という映画もあった)。本来こうした「一部の富を有する者がアクセスできた」SMを、(成人指定ではあるが)娯楽映画の中で〝ある象徴〟として描くことには啓蒙の意味もあるはずである。

 「フィフティ・シェイズ」シリーズは、手垢にまみれたロマンス/シンデレラストーリーとSMプレイとのマッシュアップによって、観客に何を与えただろうか?

 三部作で描かれる様々な道具を用いたセックスは、完璧に再現するには無理がありそうだが、創意工夫次第では庶民でも真似できそうなプレイも多々あるように見受けられた。カップルで映画を鑑賞し、「同じようなことをやってみよう」と実際に試みた人々も、世界中の上映国でカウントすればおそらくとてつもない数になるであろう(多くのプレイは必ずしも挿入を前提としていないので、ヘテロ以外のカップルにも様々な対応が可能である)。大富豪カップルが謳歌する初デートでのヘリ飛行、クルーザーでの航行、豪華絢爛な仮面舞踏会。これらを一般庶民は指をくわえて眺めることしかできないが、だがSMプレイは、一作目でアナが働く街の金物屋にクリスチャンがロープや結束バンドを買いに来たように、日用品でも代用が可能である。

 元々は「トワイライト」の二次創作物として作者のELジェイムズが書き上げたのが「フィフティ・シェイズ」シリーズの発端だそうだ。ウェブでの絶大な支持を得て刊行となるが、作者も支持者も既婚であったり子供を持つ主婦であったりすることから「マミーポルノ」という呼称が与えられたらしい。そのユーモアを自虐的に、肯定的な意味で捉えている人も多いかも知れないが、随分と馬鹿にしたカテゴライズであるようにも思う。

 ここで小説と映画によって蒔かれた種が、後世にどういった形で発芽するのか、あるいはしないのか。人類の「エロ」に関する知的欲求は尽きることがないであろうから、その内に時間の経過が証明してくれるはずである。

 

 

2017年公開作品ベスト10


1. 『メッセージ』
2. 『ブレードランナー2049』
3. 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』
4. 『20センチュリー・ウーマン』
5. 『沈黙』

 『メッセージ』『ブレードランナー2049』同じ監督が手掛けた作品がその年の1位と2位になるなんてことは、今までなかったように思う。後に評価は変わるかも知れないが“そういう年であった”記録という意味も兼ねて選出(『ブレードランナー2049』→感想)。
 『メッセージ』原作における「映像として映えない」箇所は省略し、そして新たに付け加えられた要素が全て有機的である、という奇跡的な映画になっていた。主人公:ルイーズ(エイミー・アダムス)が全てを悟った辺りから押し寄せるエモーションの波は、近年体験したことのない熱量だった。
 『ブレードランナー 2049』前作「ブレードランナー 」のロイ・バティはデッカードを圧倒的な力で追い詰め「恐怖の連続だろう?それが奴隷の一生だ」と言う。「2049」のK(ライアン・ゴズリング)は隷属性からの解放〜自我の目覚めの過程にあり、終盤「抗っても(自分にとっては)意味がない」という厳しい現実に直面するが、故にそこから彼が取る行動が観る者の胸を打つ。
 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』この手のシリーズ物の、新三部作の真ん中にあたる作品をその年のベストに選ぶことも今までならあまり考えたことがなかったが、計5回鑑賞して全く飽きなかったので選出。シリーズ8作中、最もファンタジー色が強く、こともあろうに超ビッグフランチャイズで「指輪物語」や「ゲド戦記」などのハイファンタジーSF版をやってしまった(AT-AT=火を吹くドラゴンの群れに一人立ち向かうは伝説の大魔法使いルーク)ライアン・ジョンソンに批判が集まるのもよくわかる。
 『20センチュリー・ウーマン』ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレント・ヴァイス」も西海岸を描いた映画であったが、あの世界にたむろしていたようなヒッピーの中には、数年後に「嫌気がさしてコミューンから出てしまう」普通の人もいたのであろうな、というヘンリー・カヴィルのキャラクター造形は妙にリアリティがあり、興味深かった。
 『沈黙』ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とフェレイラ(リーアム・ニーソン)が再会を果たすシーンは、近年のスコセッシ作品でも最もエモーショナルな対話シーンではないかと思う。通辞が「今書いている本のことも教えてやれ」というと、フェレイラは苦虫でも噛み潰したような沈痛な面持ちを浮かべる。


6. 『グッド・タイム』
7. 『お嬢さん』
8. 『夜明けの祈り』
9. 『オン・ザ・ミルキー・ロード』
10. 『一礼して、キス』

 『グッド・タイム』鑑賞したのは18年になってからだが、18年のベストに選ぶのも違和感を感じたので選出。90年代後半ぐらいから所謂「下層エクスプロイテーション」のようなジャンルが確立されているような気がするが、恐らくこのサフディ兄弟はそんな作品群にあって頭が一つも二つも出てしまっている。一見すると「どうってことない一夜の話」を、ラフなスタイルで追っているだけのように見えるが、実は撮影・演出・音楽/音響など、隅々までかなり緻密な起算が成されており、長編2作目にしてこのヴィジョンの揺ぎ無さというのは驚愕に値する。今後、米映画界において、かなり重要な存在になっていくように思う。
 『お嬢さん』生粋の、あるいは育った環境によって素行不良である人間が、もう一人の眠れる「不良気質」に火をつける的な話なので、こんなに楽しい映画はないと思う。
 『夜明けの祈り』ポーランド侵攻のドサクサで修道院に押し入ったソ連兵が尼僧を集団で強姦(回想として語られるだけ)→複数尼僧が妊娠→厳格な院長は修道院の閉鎖を恐れ放置→見るに見かねて一人の尼僧が抜け出し仏赤十字女性医師に助けを求める。この濃厚な流れでまだ序盤でしかない。「考えもしなかった、ソ連兵に孕まされた尼僧のお産を受け持つなんて」とは仏赤十字医師の台詞だが、この一言に戦後のポーランドの混沌がよく現れているし、俗世と隔絶しても女というだけで最悪の形で皺寄せが行くというのが色々と象徴的である。常々(昨今の日本の酷さにおいては益々)、直視しがたい歴史に光を当てるのが映画の役割の一つの側面だと思っているので、そういう意味ではベスト1といっても良い。
 『オン・ザ・ミルキー・ロード』ミルクを飲み巨大化した蛇に絡まれる。地雷原で羊が乱舞する。その他諸々の自由なイメージに感服。
 『一礼して、キス』予告編や、2017年に公開された古澤健監督作品「リライフ」「恋と嘘」などに顕著だったティーン向け青春映画のつもりで観に行くと良い意味で面喰らうことになる。抑制された構図や人物の動きはかなり異質であり、弓道、あるいはスポーツ全般におけるフェティシズムを軸に、所謂“一般的ではない”恋愛ドラマが展開し、そしてその意図は成功している。

 以下に次点作品を。

 ローガン・ラッキー/ネルーダ/サーミの血/パターソン/エル ELLE/アイ・イン・ザ・スカイ/グリーン・ルーム/シンクロナイズド・モンスター/ギフテッド/花筐/勝手にふるえてろ/わたしは、ダニエル・ブレイク/午後8時の訪問者/ラビング 愛という名前のふたり/ザ・コンサルタント/雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/ローグ・ワン/グレートウォール/キング・アーサー

過去の年度別ベスト10


名前のない馬「ブレードランナー2049」


※小説『ブレードランナー 2、3』と映画『ブレードランナー 2049』の内容に触れています。

 映画「ブレードランナー 」の続編が正式にアナウンスされた時、K・W・ジーターによる「2、3」の存在を知っていたので、それらの映画化ではない、新たな続編としてのオリジナル脚本であるとの情報に、何故そんなことをするのか?と訝しんだものだが、小説「ブレードランナー 2、3」を読んだ今ならそれがよくわかる。
 K・W・ジーターという作家。デビュー作『ドクター・アダー』でサイバーパンクを発明したと言われた男。その「ドクター・アダー」で序文を寄せているのが誰あろうフィリップ・K・ディックその人である。PKDの意志を受け継いだジーターは、「ブレードランナー2」刊行前に、ローカス誌のインタビューに答えて以下のように述べている。
 「おもちゃ箱を二つ与えられたようなもの。一つの箱には『ブレードランナー』と書いてあり、もう一つには『アンドロイドは〜』と書いてある。両方のピースを全て使えとの指示も、自前の要素を加えるなという指示もない。映画のディレクターズカットの終わりから始めるのが前提だが、かといってあまり逸脱し過ぎるのも良くない」
 結果としてジーターの綴った「ブレードランナー 」その後の物語は、「2」を上巻、「3」を下巻とするような、壮大な物語となっているのだが(日本では未翻訳だがジーターは「4」まで執筆している)、土台とした映画「ブレードランナー 」、及びP・K・ディック原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界観を、良い意味で引っ掻き回すというか、もっと言えばやりたい放題に、かつオリジナルのテイストを損なわない匙加減でミックスした「極上の二次創作」といった感じの小説なのである。そして小説「2、3」よりも年月が経っているのが「2049」だが、話は繋がりそうで繋がらず、ゆえに全く別の時間軸の話と捉えるのが正解だろう。だが、いくつかジーターの綴った続編を参考にしていると思われるポイントもあるので、それについて記すことにする。

 かいつまんで紹介すると、「ブレードランナー 2 レプリカントの墓標」は以下のようなストーリーである。

 映画「ブレードランナー 」と小説「アンドロイドは〜」でも触れられた、“第六の逃亡レプリカント”探しがメインのストーリー。主な登場人物はレイチェルの原型(テンプラント)でありタイレル社を引き継いだ故エルドン・タイレルの姪:サラ・タイレル。レオン・コワルスキー型レプリカントに狙撃されたが生きていたデッカードの同僚ブレードランナー :デイヴ・ホールデン。ロイ・バティ型レプリカントのテンプラントである傭兵上がりの男。老人病の進行により四肢を切断してしまったセバスチャン。そしてもちろん主役は映画の前作で逃亡を図った山奥でレイチェルと隠遁生活を送っていたデッカード。第六のレプリカント探しの背景には国連を巻き込んでの陰謀が浮かび上がり、最終的にタイレル本社は爆破(!)される(「2049」では、倒産したとされる旧タイレル社のビルらしき巨大な影が映る)。

 「ブレードランナー 3 レプリカントの夜」はタイレル社爆破から逃れて火星植民地に辿り着いたレイチェルとデッカードの物語となるが、実はサラとレイチェルは「2」の最後で入れ替わっており、その事実に既に気付いていたデッカードであったが、お互いに口には出さず、火星居留地のボロアパートで冷え切った同居生活を送っていた。金銭的に困窮したデッカードは自身のブレードランナー 体験が映画化されることになり、アドバイザーとしてのオファーを受けて地球外軌道に建設された“アウターハリウッド”で行われる撮影に参加していた。そこでレオン型レプリカントが撮影中に実弾で射殺される事件が発生。デッカードは宇宙植民地で蜂起した反乱レプリカントと国連との争いに巻き込まれていく。

 「3」で明かされるサラの出生の秘密。ここには「2049」の原型となるようなテーマが既に描かれていた。それは「レプリカントの生殖能力」についてである。

 「2049」は西暦が示す通り、映画「ブレードランナー 」から30年後の物語。より人間に従順であるように設計された新型レプリカントにしてブレードランナー のK(ライアン・ゴズリング)が主人公であり、寿命のないネクサス8型のレプリカントを解任(処刑)するのが彼の任務である。任務中に偶然発見したレイチェルの骨。骨からは彼女が出産していた事実が判明する。レプリカントは子供が産めないはずなのに、一体何が起きたのか?この世に生を受けた、レプリカントを母親に持つ双子。度重なる偶然から、Kは自身こそ“その子供”なのではないかと思うようになる。

 「ブレードランナー 3」のサラ・タイレルは、サランダー3号という宇宙探査船で生まれているが、両親は地球帰還前に死亡、宇宙船のコンピュータシステムにより育てられた。「3」の終盤にサラは、レイチェルという双子の姉妹(レイチェルはサランダー3号内に隠されており、物語の中盤に子供のままの姿でサラに発見される)の存在が明らかになり、二人はレプリカントの父親と母親から生まれた子供であることが判明する。デッカードが愛したレプリカント:レイチェルは、この「レプリカントが生んだレプリカント」、つまりレプリカント同士の間に産まれた第一子であるレイチェルを元に、エルドン・タイレルが創り上げたコピーのコピーであった。

 何故レプリカントが繁殖可能になったか?それは地球外世界:オフワールドでの生活において、レプリカントにはより人間的な感覚が芽生え始め、その植民地で暮らし始めた人間たちは、逆に人間性を失っていき、フォークト・カンプフ検査もパスしなくなってしまう。そして人間は不妊になりオフワールドの植民地では子供が産まれないという、人間とレプリカントの逆転現象が生じる事態に陥っていた。タイレル社のモットーである「人間よりも人間らしく」が皮肉な形で現実になったのだ。

 「2049」では長年論争となってきた「デッカードもレプリカントなのか?」問題に、(明言はしないまでも)一つの答えを出していると言える。タイレルからレプリカント製造業を受け継いだウォレスは、タイレル社でのレイチェルとデッカードの出会い、初めてのフォークト・カンプフ検査、それらが「もし最初から計画され定められているとしたら。彼女に心惹かれるよう、デザインされているとしたら?」という旨のことをデッカードに告げる。このウォレスの言葉を汲むなら、レイチェルとデッカードとの間に産まれた子供は、レイチェルの骨が見つかった時点で想定していた「人間とレプリカントの間に産まれた子供」より、より大きな意味を持つこととなる。ウォレス演じるジャレッド・レトは、たっぷりと溜めた演技で、こう呟く。「procreation.」と。ウォレスの最側近でありレプリカントのラヴ(シルヴィア・フークス)は、その生殖の証拠を始末したと話すロス市警のジョシ(ロビン・ライト)に激しい憤りを露わにし、殺してしまう。
 厳しい現実に直面し事実に打ちひしがれたデッカード(ハリソン・フォード)は、涙を堪えながら、ボソリとこう返す。「I know what's real.」

 デイヴ・バウティスタ演じるサッパー・モートン。Kに最初に“解任”されるレプリカントだが、死の間際にこんな台詞を残す。「お前らは奇跡を見たことがない」。ジーターの「ブレードランナー 3」で提示された、オフワールドでの環境によるレプリカントと人間の変化を、「2049」では「奇跡」というシンプルな形に落とし込んでいるのだが、そこに説得力を持たせているのが、Kが出生の謎を巡り運命に抗いながら辿る、その神話的な道筋である。

 それにしても、「2049」のK:ライアン・ゴズリングの今回のパフォーマンスは素晴らしい。今回はデッカードとロイ・バティを足して2で割ったような役とも言えるのだが、物語が進行に沿ってレプリカントである彼が徐々に人間味を増していく様を、ゴズリングはルトガー・ハウアーとはまた異なる手法で表現豊かに演じてみせる。いかにも捜査官という体の勿体つけた登場に始まり、ロス郊外の荒地をスピナーで飛行中にジャンク民?から攻撃を受け、落下中にも関わらず飄々としている様、襲撃者をバックブリーカーで残忍に痛めつけ、行く手を阻む者は機械的な動きで容赦なく瞬殺。そして、朧げに浮かび上がる「木彫りの馬」の思い出に困惑し、非情な運命に直面し涙を流す。自身が“選ばれし子”であることを確信してからの(おそらくレプリカントとして生きてきて初めての)感情を爆発させるシーンなど、どれも強い印象を残す。

 反乱レプリカントのリーダーから「大義に死ぬことが何より人間らしい」と聞かされたKが、最後に選んだ大義。人間よりも人間らしく。前作「ブレードランナー 」のロイ・バティが訴えていたのとはまた異なる形で“人間性”のなんたるかを、「ブレードランナー 2049」は示しているのだ。