2017年公開作品ベスト10


1. 『メッセージ』
2. 『ブレードランナー2049』
3. 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』
4. 『20センチュリー・ウーマン』
5. 『沈黙』

 『メッセージ』『ブレードランナー2049』同じ監督が手掛けた作品がその年の1位と2位になるなんてことは、今までなかったように思う。後に評価は変わるかも知れないが“そういう年であった”記録という意味も兼ねて選出(『ブレードランナー2049』→感想)。
 『メッセージ』原作における「映像として映えない」箇所は省略し、そして新たに付け加えられた要素が全て有機的である、という奇跡的な映画になっていた。主人公:ルイーズ(エイミー・アダムス)が全てを悟った辺りから押し寄せるエモーションの波は、近年体験したことのない熱量だった。
 『ブレードランナー 2049』前作「ブレードランナー 」のロイ・バティはデッカードを圧倒的な力で追い詰め「恐怖の連続だろう?それが奴隷の一生だ」と言う。「2049」のK(ライアン・ゴズリング)は隷属性からの解放〜自我の目覚めの過程にあり、終盤「抗っても(自分にとっては)意味がない」という厳しい現実に直面するが、故にそこから彼が取る行動が観る者の胸を打つ。
 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』この手のシリーズ物の、新三部作の真ん中にあたる作品をその年のベストに選ぶことも今までならあまり考えたことがなかったが、計5回鑑賞して全く飽きなかったので選出。シリーズ8作中、最もファンタジー色が強く、こともあろうに超ビッグフランチャイズで「指輪物語」や「ゲド戦記」などのハイファンタジーSF版をやってしまった(AT-AT=火を吹くドラゴンの群れに一人立ち向かうは伝説の大魔法使いルーク)ライアン・ジョンソンに批判が集まるのもよくわかる。
 『20センチュリー・ウーマン』ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレント・ヴァイス」も西海岸を描いた映画であったが、あの世界にたむろしていたようなヒッピーの中には、数年後に「嫌気がさしてコミューンから出てしまう」普通の人もいたのであろうな、というヘンリー・カヴィルのキャラクター造形は妙にリアリティがあり、興味深かった。
 『沈黙』ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とフェレイラ(リーアム・ニーソン)が再会を果たすシーンは、近年のスコセッシ作品でも最もエモーショナルな対話シーンではないかと思う。通辞が「今書いている本のことも教えてやれ」というと、フェレイラは苦虫でも噛み潰したような沈痛な面持ちを浮かべる。


6. 『グッド・タイム』
7. 『お嬢さん』
8. 『夜明けの祈り』
9. 『オン・ザ・ミルキー・ロード』
10. 『一礼して、キス』

 『グッド・タイム』鑑賞したのは18年になってからだが、18年のベストに選ぶのも違和感を感じたので選出。90年代後半ぐらいから所謂「下層エクスプロイテーション」のようなジャンルが確立されているような気がするが、恐らくこのサフディ兄弟はそんな作品群にあって頭が一つも二つも出てしまっている。一見すると「どうってことない一夜の話」を、ラフなスタイルで追っているだけのように見えるが、実は撮影・演出・音楽/音響など、隅々までかなり緻密な起算が成されており、長編2作目にしてこのヴィジョンの揺ぎ無さというのは驚愕に値する。今後、米映画界において、かなり重要な存在になっていくように思う。
 『お嬢さん』生粋の、あるいは育った環境によって素行不良である人間が、もう一人の眠れる「不良気質」に火をつける的な話なので、こんなに楽しい映画はないと思う。
 『夜明けの祈り』ポーランド侵攻のドサクサで修道院に押し入ったソ連兵が尼僧を集団で強姦(回想として語られるだけ)→複数尼僧が妊娠→厳格な院長は修道院の閉鎖を恐れ放置→見るに見かねて一人の尼僧が抜け出し仏赤十字女性医師に助けを求める。この濃厚な流れでまだ序盤でしかない。「考えもしなかった、ソ連兵に孕まされた尼僧のお産を受け持つなんて」とは仏赤十字医師の台詞だが、この一言に戦後のポーランドの混沌がよく現れているし、俗世と隔絶しても女というだけで最悪の形で皺寄せが行くというのが色々と象徴的である。常々(昨今の日本の酷さにおいては益々)、直視しがたい歴史に光を当てるのが映画の役割の一つの側面だと思っているので、そういう意味ではベスト1といっても良い。
 『オン・ザ・ミルキー・ロード』ミルクを飲み巨大化した蛇に絡まれる。地雷原で羊が乱舞する。その他諸々の自由なイメージに感服。
 『一礼して、キス』予告編や、2017年に公開された古澤健監督作品「リライフ」「恋と嘘」などに顕著だったティーン向け青春映画のつもりで観に行くと良い意味で面喰らうことになる。抑制された構図や人物の動きはかなり異質であり、弓道、あるいはスポーツ全般におけるフェティシズムを軸に、所謂“一般的ではない”恋愛ドラマが展開し、そしてその意図は成功している。

 以下に次点作品を。

 ローガン・ラッキー/ネルーダ/サーミの血/パターソン/エル ELLE/アイ・イン・ザ・スカイ/グリーン・ルーム/シンクロナイズド・モンスター/ギフテッド/花筐/勝手にふるえてろ/わたしは、ダニエル・ブレイク/午後8時の訪問者/ラビング 愛という名前のふたり/ザ・コンサルタント/雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/ローグ・ワン/グレートウォール/キング・アーサー

過去の年度別ベスト10


名前のない馬「ブレードランナー2049」


※小説『ブレードランナー 2、3』と映画『ブレードランナー 2049』の内容に触れています。

 映画「ブレードランナー 」の続編が正式にアナウンスされた時、K・W・ジーターによる「2、3」の存在を知っていたので、それらの映画化ではない、新たな続編としてのオリジナル脚本であるとの情報に、何故そんなことをするのか?と訝しんだものだが、小説「ブレードランナー 2、3」を読んだ今ならそれがよくわかる。
 K・W・ジーターという作家。デビュー作『ドクター・アダー』でサイバーパンクを発明したと言われた男。その「ドクター・アダー」で序文を寄せているのが誰あろうフィリップ・K・ディックその人である。PKDの意志を受け継いだジーターは、「ブレードランナー2」刊行前に、ローカス誌のインタビューに答えて以下のように述べている。
 「おもちゃ箱を二つ与えられたようなもの。一つの箱には『ブレードランナー』と書いてあり、もう一つには『アンドロイドは〜』と書いてある。両方のピースを全て使えとの指示も、自前の要素を加えるなという指示もない。映画のディレクターズカットの終わりから始めるのが前提だが、かといってあまり逸脱し過ぎるのも良くない」
 結果としてジーターの綴った「ブレードランナー 」その後の物語は、「2」を上巻、「3」を下巻とするような、壮大な物語となっているのだが(日本では未翻訳だがジーターは「4」まで執筆している)、土台とした映画「ブレードランナー 」、及びP・K・ディック原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界観を、良い意味で引っ掻き回すというか、もっと言えばやりたい放題に、かつオリジナルのテイストを損なわない匙加減でミックスした「極上の二次創作」といった感じの小説なのである。そして小説「2、3」よりも年月が経っているのが「2049」だが、話は繋がりそうで繋がらず、ゆえに全く別の時間軸の話と捉えるのが正解だろう。だが、いくつかジーターの綴った続編を参考にしていると思われるポイントもあるので、それについて記すことにする。

 かいつまんで紹介すると、「ブレードランナー 2 レプリカントの墓標」は以下のようなストーリーである。

 映画「ブレードランナー 」と小説「アンドロイドは〜」でも触れられた、“第六の逃亡レプリカント”探しがメインのストーリー。主な登場人物はレイチェルの原型(テンプラント)でありタイレル社を引き継いだ故エルドン・タイレルの姪:サラ・タイレル。レオン・コワルスキー型レプリカントに狙撃されたが生きていたデッカードの同僚ブレードランナー :デイヴ・ホールデン。ロイ・バティ型レプリカントのテンプラントである傭兵上がりの男。老人病の進行により四肢を切断してしまったセバスチャン。そしてもちろん主役は映画の前作で逃亡を図った山奥でレイチェルと隠遁生活を送っていたデッカード。第六のレプリカント探しの背景には国連を巻き込んでの陰謀が浮かび上がり、最終的にタイレル本社は爆破(!)される(「2049」では、倒産したとされる旧タイレル社のビルらしき巨大な影が映る)。

 「ブレードランナー 3 レプリカントの夜」はタイレル社爆破から逃れて火星植民地に辿り着いたレイチェルとデッカードの物語となるが、実はサラとレイチェルは「2」の最後で入れ替わっており、その事実に既に気付いていたデッカードであったが、お互いに口には出さず、火星居留地のボロアパートで冷え切った同居生活を送っていた。金銭的に困窮したデッカードは自身のブレードランナー 体験が映画化されることになり、アドバイザーとしてのオファーを受けて地球外軌道に建設された“アウターハリウッド”で行われる撮影に参加していた。そこでレオン型レプリカントが撮影中に実弾で射殺される事件が発生。デッカードは宇宙植民地で蜂起した反乱レプリカントと国連との争いに巻き込まれていく。

 「3」で明かされるサラの出生の秘密。ここには「2049」の原型となるようなテーマが既に描かれていた。それは「レプリカントの生殖能力」についてである。

 「2049」は西暦が示す通り、映画「ブレードランナー 」から30年後の物語。より人間に従順であるように設計された新型レプリカントにしてブレードランナー のK(ライアン・ゴズリング)が主人公であり、寿命のないネクサス8型のレプリカントを解任(処刑)するのが彼の任務である。任務中に偶然発見したレイチェルの骨。骨からは彼女が出産していた事実が判明する。レプリカントは子供が産めないはずなのに、一体何が起きたのか?この世に生を受けた、レプリカントを母親に持つ双子。度重なる偶然から、Kは自身こそ“その子供”なのではないかと思うようになる。

 「ブレードランナー 3」のサラ・タイレルは、サランダー3号という宇宙探査船で生まれているが、両親は地球帰還前に死亡、宇宙船のコンピュータシステムにより育てられた。「3」の終盤にサラは、レイチェルという双子の姉妹(レイチェルはサランダー3号内に隠されており、物語の中盤に子供のままの姿でサラに発見される)の存在が明らかになり、二人はレプリカントの父親と母親から生まれた子供であることが判明する。デッカードが愛したレプリカント:レイチェルは、この「レプリカントが生んだレプリカント」、つまりレプリカント同士の間に産まれた第一子であるレイチェルを元に、エルドン・タイレルが創り上げたコピーのコピーであった。

 何故レプリカントが繁殖可能になったか?それは地球外世界:オフワールドでの生活において、レプリカントにはより人間的な感覚が芽生え始め、その植民地で暮らし始めた人間たちは、逆に人間性を失っていき、フォークト・カンプフ検査もパスしなくなってしまう。そして人間は不妊になりオフワールドの植民地では子供が産まれないという、人間とレプリカントの逆転現象が生じる事態に陥っていた。タイレル社のモットーである「人間よりも人間らしく」が皮肉な形で現実になったのだ。

 「2049」では長年論争となってきた「デッカードもレプリカントなのか?」問題に、(明言はしないまでも)一つの答えを出していると言える。タイレルからレプリカント製造業を受け継いだウォレスは、タイレル社でのレイチェルとデッカードの出会い、初めてのフォークト・カンプフ検査、それらが「もし最初から計画され定められているとしたら。彼女に心惹かれるよう、デザインされているとしたら?」という旨のことをデッカードに告げる。このウォレスの言葉を汲むなら、レイチェルとデッカードとの間に産まれた子供は、レイチェルの骨が見つかった時点で想定していた「人間とレプリカントの間に産まれた子供」より、より大きな意味を持つこととなる。ウォレス演じるジャレッド・レトは、たっぷりと溜めた演技で、こう呟く。「procreation.」と。ウォレスの最側近でありレプリカントのラヴ(シルヴィア・フークス)は、その生殖の証拠を始末したと話すロス市警のジョシ(ロビン・ライト)に激しい憤りを露わにし、殺してしまう。
 厳しい現実に直面し事実に打ちひしがれたデッカード(ハリソン・フォード)は、涙を堪えながら、ボソリとこう返す。「I know what's real.」

 デイヴ・バウティスタ演じるサッパー・モートン。Kに最初に“解任”されるレプリカントだが、死の間際にこんな台詞を残す。「お前らは奇跡を見たことがない」。ジーターの「ブレードランナー 3」で提示された、オフワールドでの環境によるレプリカントと人間の変化を、「2049」では「奇跡」というシンプルな形に落とし込んでいるのだが、そこに説得力を持たせているのが、Kが出生の謎を巡り運命に抗いながら辿る、その神話的な道筋である。

 それにしても、「2049」のK:ライアン・ゴズリングの今回のパフォーマンスは素晴らしい。今回はデッカードとロイ・バティを足して2で割ったような役とも言えるのだが、物語が進行に沿ってレプリカントである彼が徐々に人間味を増していく様を、ゴズリングはルトガー・ハウアーとはまた異なる手法で表現豊かに演じてみせる。いかにも捜査官という体の勿体つけた登場に始まり、ロス郊外の荒地をスピナーで飛行中にジャンク民?から攻撃を受け、落下中にも関わらず飄々としている様、襲撃者をバックブリーカーで残忍に痛めつけ、行く手を阻む者は機械的な動きで容赦なく瞬殺。そして、朧げに浮かび上がる「木彫りの馬」の思い出に困惑し、非情な運命に直面し涙を流す。自身が“選ばれし子”であることを確信してからの(おそらくレプリカントとして生きてきて初めての)感情を爆発させるシーンなど、どれも強い印象を残す。

 反乱レプリカントのリーダーから「大義に死ぬことが何より人間らしい」と聞かされたKが、最後に選んだ大義。人間よりも人間らしく。前作「ブレードランナー 」のロイ・バティが訴えていたのとはまた異なる形で“人間性”のなんたるかを、「ブレードランナー 2049」は示しているのだ。

2016年公開作品ベスト10


1. 『ザ・ギフト』
2. 『ウォークラフト』
3. 『キャロル』
4. 『セルフレス/覚醒した記憶』
5. 『溺れるナイフ』

1.ザ・ギフト
 ジョエル・エドガートン初監督作。この手のサスペンス/スリラーで監督デビューした俳優というと真っ先にイーストウッドの「恐怖のメロディ」を思い出すが、あの映画と決定的に違うのは「異常なことをしてしまう人にもそれなりの理由があるはず」といった視点、「社会での勝ち組・負け組」といった要素を巧みに忍ばせている点だと思う。そしてそれはまさに、ジョエル・エドガートンという俳優が今まで関わってきたほとんどの映画に共通するテーマでもあると思う。
2.ウォークラフト
 原作であるゲームの内容をほぼ知らない状態で鑑賞。自分が所属する会社が、明らかにブラック経営に転じた/一線を越えた際に、企業戦士は何を選ぶのか、という話にも変換が可能。非常に高度な政治的判断で義を捨てなければならなかった者の悲しみ〜裏切られた者の義憤〜それが新たな戦いの火種へ〜といった盛り上がりが最高潮に達して幕を閉じるので、どうかこの一部だけで終わることがないよう、トリロジーとして続編も制作されますように……と心から願う。
3.キャロル

4.セルフレス/覚醒した記憶
 ターセムの新機軸。のっけから「アバター」的なトンデモ設定、そしてそこから「ボーンシリーズ」「ゲッタウェイ」のような逃亡劇になるので、これは一体何が起きているのだと興味深く観ていれば、ニューオリンズのブラスバンドの音像と映像の畳み掛けるようなマッシュアップ、全編冷やかでタイトなルック(デジタル以降のソダーバーグっぽさもある)、火炎放射器など楽しいアイテムも登場するわで、下手な監督が撮ればボンクラSFの域を出ることは無いであろうプロットが、中々の力作に仕上がっていて驚いた。
5.溺れるナイフ
 かなり深刻な性暴力被害がテーマの中心にある青春映画で、そうした要素が如何に人間の精神を消耗させ疲弊させるかを描いている。その事件が起こる前の、ティーンエイジキラキラ全能感は、大林宣彦のアイドル映画的な妙な雰囲気があったりする。映画の終盤にかけて、その性暴力被害を乗り越える話になるわけだが、これがかなりの力技で驚いた。ラストの二人の疾走は、なんというか「ガタカ」の切なさを思い出し、結構とんでもない監督のメジャー作デビューに立ち会っているのだな、と実感。


6. 『ニュースの真相』
7. 『人生は小説よりも奇なり』
8. 『ヘイトフル・エイト』
9. 『幸せをつかむ歌』
10. 『インサイダーズ/内部者たち』

6.ニュースの真相
 結論から言ってしまえば「失敗した『スポットライト』」という話ではあるのだけど、その負けっぷりが凄まじく鑑賞後にため息が出た。「問題の本質をスッ飛ばして些細な疑惑に囚われて議論が大幅に本筋から外れていく」という事象は、ここに描かれている04年以降、SNSやブログが普通に存在する時代に突入し、そして昨今では更に酷くなっている気がして、その源泉を見るような思いで暗澹たる気分になった。
7.人生は小説よりも奇なり

8.ヘイトフル・エイト

9.幸せをつかむ歌
 これまで「保守の不寛容さをリベラルがバカにしたり批判したりする」という趣旨の映画は多々あれど、その逆、「リベラルの、保守に対する不寛容さ」というテーマはあまりお目にかかったことが無いような気がするが、本作では正にそうしたドラマが描かれている。
 「ネットを使いこなすようになった父親や母親がFBを始め、見に行ったら見事にネトウヨ化していた」的な事例は身近でも二、三件は聞いたことがあって、でも、だからと言って断絶するわけもいかず、家族であるのだからとりあえず対話を試みないことにはいかない訳で、ある意味でブレグジット〜米大統領選イヤーを象徴する一本とも言える(そしてこの映画から学べなかった)。
10.インサイダーズ/内部者たち
 不正の告発や権力批判という、既に手垢にまみれたテーマに加えられたのが「告発者のバックグラウンド(階級やら人間性やら)が問われる」という、非常に今日の日本にも顕著な問題を扱っており、尚且つそれを大オチに用いているので、構造的にはかなり緻密な脚本と言えるだろう。本作でも肝として描かれる「政治家への性接待」という問題が今年になって法律で禁止されるなど、エンタメを用いて巧みに権力に噛み付く韓国映画人の姿勢を(自分の国の状況などと比較して)本当に羨ましく思う。


次点作品を以下に。

スポットライト 世紀のスクープ(感想)/オマールの壁/ブリッジ・オブ・スパイ/クリムゾン・ピーク/消えた声が、その名を呼ぶ/ゴースト・バスターズ/DOPE!/世界一キライなあなたに/ハンズ・オブ・ラブ 手のひらの勇気/パディントン/グッバイ、サマー/コップ・カー/ジェーン/手紙は憶えている/シークレット・オブ・モンスター/ガール・オン・ザ・トレイン


過去の年度別ベスト10



R.I.P. AY


(そろそろ)オフラインで逢いましょう「君の名は。」


 「初めて恋の告白したのは、SNSでのやりとり」という経験をしている人は、デジタルネイティブ世代ではかなりの割合をしめるのではないだろうか。こうしたSNS上のやりとりで何が可能になったかといえば、一見フレンドライクな関係を保ちながら、DMやメッセージといった機能によって、外部に決して漏れない「1対1の濃密なコミュニケーション」だろう。
 表では親しい友人的な関係を装いながら、裏ではもうほとんど「好き」と言っているに等しい状態にある、というのは、非常に「エロティック」であるように思う。
 「君の名は。」において、東京暮らしの高校生:瀧(たき)と飛騨の高校生:三葉(みつは)が交わすのは、こうしたSNS的なやりとりである。
 二人は、二人の意識と身体が入れ替わってしまう奇妙な現象に対応すべく、お互いにルールを決める。それは、入れ替わった日の記録をスマートフォンのメモ機能(?)に記す、というものである。この設定は、時間の差こそあるが、ほぼ擬似SNSであると言って良い。デジタルネイティブであればLINE、それより上の世代であればmixiやツイッターなど、想起するSNSは様々であろう。インターネットに慣れ親しんでいない人々にとっても、上記の「時間差」という要素を盛り込むことによって「携帯電話で文通のようなことしている」との変換が可能だろう。
 さて、こうした密なコミュニケーションを日々続けていれば、どちらかが気持ちを抑えられなくなり「ちょっと(オフラインで)会いませんか?」という行動に打って出るのは当然の帰結である。「君の名は。」では、二人の関係がそうした段階に移る前に、三葉側からの連絡が途絶えてしまう。
 当然、瀧としては、三葉に対する自分の想いに確証を持てないままに、オフラインで実際に「会いに」行ってしまう。そこで判明する驚愕の事実。ここで新海誠という作家は、ちょっとあざといぐらい明確に、3.11的なモチーフを用意するのだ。

 最高潮に盛り上がった恋愛パートは、未曾有の自然災害から愛する人を救いたいという新たなミッションも加えられ、観るものを否応なく巻き込んでいく。更に新海は、「かたわれどき」という便利な設定を用いて、二人を初めてオフラインで引き合わせるのだが、もうすでに「かたわれ」と出会っている人々はその出会いに想いを馳せ、まだ出会っていない者は未だ見ぬ「かたわれ」に想いを馳せるという、非常に幅広いレンジで観客のハートを鷲掴みにしてしまうのである。
 もうすでに邦画の歴代興行収入では上は「千と千尋の神隠し」を残すのみとなり、日本以外の国での上映も始まっており、概ね好評を持って迎えられているようである。SNSという要素は万国共通であろうし、終盤の軸となる3.11的要素や「くちかみ酒」といったモチーフは、よりロマンティックなオリエンタリズムとして受け入れられるはずである。オスカーの正式ノミネートや、ノミネートの先の・・・というのは、まんざらあり得ないことでもないのかも知れない。



21世紀のコバヤシマル・シナリオ「ハドソン川の奇跡」


 「スター・トレック」という作品のテレビ版と劇場版、両方に数回登場する「コバヤシマル」という宇宙船名がある。
 同作品内の「コバヤシマル・シナリオ」という、宇宙艦隊アカデミーのシミュレーション課題に由来するものだが、このテストはどう行動しても敵艦隊の攻撃によって死を免れないシナリオになっており、候補生が「絶望的な状況下での反応と、そこから適切な対応がとれるか」を見極めるためのテストとなっている。
 クリント・イーストウッド監督の「ハドソン川の奇跡」は、2009年に起きた「USエアウェイズ1549便不時着水事故」を描いた作品だ。
 鳥が旅客機の左右の両エンジンに飛び込み、航行不能に陥るものの、ハドソン川に着水し絶望的な危機を回避した実話を元にしているのだが、この機長によるとっさの決断と奇跡的な操舵術が、フライトシミュレーターによると「(川に着水などの)無茶をせずとも他に打つ手(他の空港に着陸するなど)があったのでは?」と判断されてしまうのである。
 これはまさに、前人未踏なことをやってのけたゆえに疑われたりその正当性を問われるという「逆コバヤシマル」的な状況であり、物語の終盤ではその正否を問う法廷物(審議会)の様相を呈してくる。
 「スター・トレック」でのメインキャラ、U.S.S.エンタープライズの艦長:ジェイムズ・T・カークはある「いんちき」によって「コバヤシマル」テストをパスしてしまうのだが、「ハドソン川の奇跡」のサレンバーガー機長は、長年培った勘や、言語化不可能な直感によって絶望的状況を脱してみせる。機長が直面した「死に最も近づいた値」を加算した結果、それまでシミュレーターが提示したオルタナティヴは途端に悉く失敗し、市街地に墜落というテスト結果になる。「テクノロジー依存」に対する、イーストウッドの批判が重たくのしかかる快作である。

無料DLでフランス現行シーンに触れる 仏インディーレーベル「ラ・スーテレーヌ」


 休日にbandcamp内を「name your price」や「free downloadといったタグで探っていると、その二つで共に多く引っかかる「La Souterraine」というレーベルに辿り着いた。
 しかもこのレーベル、この音源一覧のアルバムは全て投げ銭DLが可能(つまり0円でもオーケー)となっており、丸一日を費やして大体の音源を把握し、そのクオリティの高さ、そしてそれを広く解放拡散してしまうレーベルの心意気/太っ腹加減に感動。後日に色々と調べてみると、以下のリンクで事情通の方が既に紹介しており、非常にためになりました。

 今から約1年前の2014年1月、パリのレーベルAlmost Musiqueの代表者バンジャマン・カシュラとパリのラジオ局アリグルFMのDJだったローラン・バジョンが中心になって、フランス語で「アンダーグラウンド」を意味するラ・スーテレーヌ(La Souterraine)というサイトを立ち上げました。
(略)
 このサイトが音源を紹介する唯一の条件は「YouTubeでほとんど紹介されていない」ということなので、フランスでもまったく知られていないミュージシャンがほとんどですが、商業ベースに乗らない良質なフランスのインディーポップをたっぷり聴くことができます。
フランスの「アンダーグラウンド」ポップスのショーケース、ラ・スーテレーヌ(La Souterraine) - ふつごぽんTMBL

 自分も丸一日かけてDLした結果、アーティスト/アルバム単位で幾つか「凄く良いな!」と思った音源を以下に挙げてみます。

Baron Rétif & Concepcion Perez「disque d'or」
 「J Dilla的なビートを生演奏・上ものはジャジーだったりインストファンクっぽかったり」という、正に「今、ONな感じ」の人たち。ラッパーをフィーチャーした曲もあり。
2024「Mostla tape」
 ドラムが非常に気持ち良いロックバンド。音像が良い感じにスカスカでギターとベースもオールディーズっぽい音色だけど、オルガンなど鍵盤系の音も随所に盛り込まれていて緻密な印象。
Les Passagers「Mostla Tape」
 女性Voのグループ(?)。全体的にレイドバックしてる印象がありつつビートが立った曲も凄く良い。M7「Acheter ta peau」でヤられました。

 とりあえず3アーティストを。
 で、折角かなりの数の音源をDLさせて貰ったので、自分でも「お薦めmix」を作ってみました。この「ラ・スーテレーヌ」からは音源をリリースしていないものの、コンピのみに参加しているアーティストも何組かおり、そういう人たちの音源も混ぜてあります(ステレオラブ、レティシアのソロ曲も入れました)。
Guide to Mostla (soundcloud)
DLコチラからどうぞ

 そもそもこのラ・スーテレーヌというレーベルが話題になったのは、フランスの総合文化雑誌テレラマでニコラ・ポーガムのミックステープが紹介されたのがきっかけでした(テレラマの年間ベストアルバムの一枚にも選ばれています)。ニコラ・ポーガムは1970年生まれで、90年代に組んでいたダ・カーポというグループのCDは日本で出たこともあります。キャリアが長いとはいってもまったく無名だったのですが、去年テレラマで取り上げられたことで注目され、フィジカルのソロCDを出すことができました。
(略)
 〜ヒップホップ界隈ではこのようなミックステープは既に普通のものですが、インディーポップではまだ珍しい試みだと言えるでしょう。このような試みが将来どのような実を結ぶのかはまだわかりませんが、注目をつづけていきたいと思います。
 ともかくフランス語で歌われる最新ポップスが無料でダウンロードして聞けるなんて、これほどうれしいことはありません。「アンダーグラウンド」とはいっても、どろどろしていたりとっつきにくかったりするものではありません。それでも特に売れるための配慮をした音づくりをしていないので、「アンダーグラウンド」ならではの自由な気風を感じとることができると言えるでしょう。現在の商業的なヴァリエテ・フランセーズに不満があるひとの中には、むしろ「こういうフレンチポップスが聞きたかった」と思うひとも多いのではないでしょうか。
同・ふつごぽんTMBL

 ↑常々思っていたことを簡潔にまとめて下さっています。インディーロック界、ジャズ界なんかでも、こういう波が幾つか立てばシーンの活性化にも繋がるような気がします。



私と、貴方と、私達が知っている全ての人々の話「スポットライト 世紀のスクープ」


 ボストン・グローブ紙が、ボストンのカトリック教会の、とある神父による児童への性的虐待事件と、教会全体がそれに対して隠蔽工作を行っていた事実を告発し、最終的には国ですら干渉できなかったバチカンが非を認め賠償するに至った、という実話に基づく作品。
 今までも性暴力被害を告発するような映画は幾つか作られてきたと思うが、本作で斬新だった視点は、所謂「被害者の会」の人々が置かれる立場である。
 彼らは巨大なバチカンを相手に、被害者の話だけを武器に、(数こそいるが)孤独で勝ち目のない戦いを続け、教会側の弁護士に敗れ続けるも、決して戦いを止めようとはしない。ボストングローブの取材班:スポットライトチームは、「聖職者による虐待被害者ネットワーク」のリーダー、フィル・サヴィアーノ(ニール・ハフ)にコンタクトを取る。彼は取材に応じこそすれど、長年に渡る教会との戦いに疲れて果てていて、ボストングローブに対しても苛立ちを隠さない。
 「何年か前に資料を送ったじゃないか!憶えてないのか?」
 (意味深な彼のこの話は、後にボストングローブ側に落ち度があったことが判明する伏線となっている)

 このリーダーの不安定な態度に、デスク(マイケル・キートン)は「彼の身辺をよく洗え」と命じるのだが、この構図に「性暴力被害の、直接の被害から派生する二次的被害」が端的によく描かれているのである。
 つまり、はなから被害者の話は完全に信じない、疑ってかかるべし、ということなのである。ボストングローブという老舗の新聞社のことを考えば、リスクマネージメントととしての身辺調査は当然のことのようにも思えるが、被害者への対応で疲れ切っている組織の人に、(表には出さないとしても)あまりにも酷い対応であるように思う。被害者にとって、完全に信用してもらえないことは苛立ちとなり、その苛立ちもやがて諦めへと変わり、果ては「面倒な人」と思われることを避けるあまり自ら萎縮していってしまう。
 「スポットライト」の取材チームは、取材を進めていく過程で事件の暴露よりより大きな責務を背負うこととなる。それは加害者神父だけの罪ではなく、バチカンが事態を知りながら組織的な隠蔽を行っていた、という事実を突き止めてしまったからである。これはもう、加害者だけの問題ではなく「Whole System」の問題である、と。そこを暴かないことには、一人の神父が謝罪して終わり、罪の隠れ蓑である機構は生き続けてしまう。その存続だけは何としてでも避けなければならない、ということが、映画の命題として浮かび上がってくる。
 そして取材から数ヶ月経ち、いよいよ紙面で世に訴える準備が整いつつある、そんなタイミングで9.11が起きてしまう。ボストングローブ社内でも、とても教会の性暴力被害の話ではなくなってしまい、被害者の会のフィルはイライラを募らせていく。「どうせ取りあげる気もないし、被害者のことなんてどうでも良いんだろ」と罵ったりする。この時に記者のサーシャ(レイチェル・マクアダムズ)はこう返す。

 「I am here because I care.」
 私が翻訳者なら、意訳上等で「どうでも良いわけないじゃないの!」とでも訳すであろう、直訳すると間が抜けてしまいそうな非常に力強い台詞である。
 私はここにいる、何故なら貴方のことを気にかけているから。
 終盤、性的虐待を行った神父と学校で接点があったことを思い出した記者が「もしかしたら自分が被害に遭っていた可能性だって十分にあった」と愕然とするシーンがある。誰の身にでも降りかかる可能性があったということ、それはすなわち観客に対する「あなた」に降りかかったかもしれない、というメッセージだ。
 暴露記事はクリスマスを避け、年が明けてから発表された。紙面が各家庭に届いたその朝、編集部には次々と電話がかかってきて鳴り止むことがない。それは「第二・第三・第四の」被害者の声だったわけであるが、この「報道機関が公にしたことで、ようやく声を上げられる」という悲痛な叫び声を象徴的に描き、映画は幕を閉じる。
 自分の身に起きたことと想起させ、サバイバーのことは疑ったり否定したりせずに常に耳を傾けること。オスカー作品賞受賞作という名の下に、多くの人々にこの作品が届いた意味は、非常に大きいものであったように思う。